哲学の詭弁。

砂山のパラドックスという思考実験がある。

砂山から数粒砂を取り去っても砂山のままだが、その行程を何度も繰り返し、残り一粒となった砂も、砂山と呼べるか?という内容の物である。

 

しかし、この思考実験は正当だと言えるだろうか?

例えば50度のお湯で想像してみてほしい。

50度から5度下げて45度にしてもまだお湯だが、その行程を繰り返し0度になった水はお湯とは呼べないだろう。

そもそも、50度から5度下げる状態と、30度から5度下げる状態を同一視しているのがおかしい。

違う状態の物から同じ数値を取り除いても両者は同一の状態ではないのは当たり前だろう。50度と30度では元々の数値が違う状態なのだから。

 

この思考実験は砂山という言語の定義の曖昧さを問題としているらしいが、そもそも論として言語は人間の思想や見えてるものやらを記号化した物に過ぎないので明確な定義を求めるのもおかしな話だ。箱の中のカブトムシが共通の意味を持たないのと同じである。

 

なのに何故哲学者は定義に拘るのだろうか?

決めようと思えば、今からでも何g、何粒からが砂山だと決めることは可能だと言うのに。